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玉砕の島 硫黄島

2019.02.21

玉砕の島 硫黄島

硫黄島は、明治24年(1891年)9月、勅令により日本領土となり、東京都小笠原島庁の所轄となりました。もともとは無人島でしたが、これに先立つ明治22年(1889年)6月に、父島の住民が、鮫の漁と硫黄採取を目的として渡航したことから硫黄島の開拓が始まったといわれています。

明治25年(1892年)から本格的に硫黄採掘事業が開始された後は、産業の重点が農業に移り、砂糖キビなどを栽培していました。農業の隆盛とともに人口も増加し、昭和15年(1940年)4月に、硫黄島に村制が施行されました。記録に残る当時の人口は、1098人にものぼりました。

しかし、昭和16年(1941年)に太平洋戦争が勃発すると、豊かで平和だった島は、本土を防衛するための最前線の島となり、昭和19年(1944年)には、住民に対して疎開命令が下されました。日米両軍の熾烈な死闘が繰り広げられ、猛烈な艦砲射撃と豪雨のような空爆で、かつての村は消え、島の風景は一変しました。まさに玉砕の島となってしまったのです。以来、住民の帰島はかなっていません。そして、今なお残る1万2千の遺骨が遺族のもとに帰ることなく眠っているのです。

戦時中の強制疎開と未だ許されぬ帰島

本土防衛の最前線基地となったのは硫黄島だけではありません。小笠原諸島の島民およそ6000人も、制限された手荷物・風呂敷包みを抱え、幼子の手を引き、着の身着のままで本土に強制疎開させられました。その際、15歳から60歳までの男子800人あまりは軍属として島に残されたのです。

1945年2月19日、米軍の上陸で「日本国内」における最初の、熾烈な陸上戦闘が始まりました。大切な父母や妻子と離れ、孤立無援の孤島に留まった日本軍2万余名は、圧倒的な米軍の攻撃に対し、食料も水もない灼熱の地下壕にこもって、持久戦を展開しました。そして、3月末に玉砕を遂げたのです。米軍側にも約7000人の戦死者が出ました。

戦後、強制疎開させられた島民は慣れない内地で散り散りバラバラの生活を強いられました。とくに硫黄島の島民は、返還後も厳しい自然条件などを理由に今日まで帰島は許されていないのが現状です。現在、島には約400人の海上・航空自衛隊員とその関係者が、基地業務のほか気象観測や災害派遣(急患の輸送)などを行うために滞在し、文字通り「基地の島」となっています。

2002年9月、公明党小笠原調査団のメンバーとして、小笠原村を訪問した山口なつおは、父島で「小笠原村在住硫黄島旧島民の会」(宮川章会長)の代表と懇談しました。席上、旧島民が高齢化して、当時を知る人々が減少していく現状や、旧島民が民間人であることから近年まで遺骨収集に参加できなかった経緯、そして、自衛隊の不発弾の処理作業と並行して行われる遺骨収集活動の困難さ、さらには、限られた時間内に駆け足でしなければならなかった墓参のことなど、家族を失ったメンバーの話に真剣に耳を傾けました。

山口なつおも、硫黄島で戦死し、いまだに遺骨が戻らない身内を持つことから、「外地ではない日本の領土内で、ここだけ遺骨収集ができていない。軍属として一族を代表する若い人たちが島に残され、尊い命を失った遺族の心情を思うと、特別の集中的な遺骨収集活動を行い、一日も早く戦後の決着をつけなければならない」と感想を語りました。

2002年6月、小笠原村は40人の宿泊が可能な「硫黄島平和祈念会館」を硫黄島内に建設しました。58年ぶりに故郷で一夜を過ごした旧島民は、「初めてゆとりある供養ができた」と涙を流したそうです。しかし、いまだ終わらぬ硫黄島の戦後処理は国の責務であるはずです。

厚生労働省によると、2006年11月までに硫黄島での戦没者遺骨収集は延べ63回。8526柱の遺骨を収集したといいます。また、1976年度から始まった遺族の訪問慰霊は18回の実施となっています。

望まれていた小笠原諸島振興開発特別措置法の延長

国は、この島々の地理的、歴史的特殊性をかんがみ69年、小笠原諸島復興特別措置法を公布しました。同法は、以後5年ごとに延長を重ね、現在の小笠原諸島振興開発特別措置法に引き継がれ、島民の生活安定と地域の自立発展の促進、経済と福祉の向上に、大きな力となってきました。

小笠原の調査を終えた山口なつおは、航空路実現や父島・母島間の格差是正、情報通信体系の改善、医療・福祉施策の拡充など、島に暮らす人々の声を踏まえ、関係当局に3度にわたる申し入れを重ね、2003年度の同法の改正と延長に尽力してきました。また、上京されてこられた小笠原村議団と意見交換するなど、さらなる問題解決に全力を尽くしています。

山積する課題を乗り越え、平和の尊さを語り継ぐ真に豊かな島々になり得るのか。そこに、わが国の”政治”が問われているのです。