両親の背中

私の父・秀男は、1922年(大正11年)千葉県の富津市生まれ。気象庁の技術官を経て、私が物心ついた時には、茨城県日立市にできた天気相談所の初代所長として、天気予報をはじめ、環境保全の仕事をしていました。
鉱工業が盛んな日立市と、公害問題は切っても切り離せない関係でした。作家の新田次郎氏の小説『ある町の高い煙突』の題材にもなりましたが、明治・大正の時代から、鉱山から出る煙害に住民は悩まされていました。小説は、鉱山側と住民側の誠実な交渉で、一応の解決をみたという夢のような話ですが、実はこの話を持ち込んだのが、私の父でした。新田氏とは、気象庁時代の同僚だったのです。いずれにしても、父は公害問題の解決に全力を尽くしていました。
セメント工場がはき出す粉塵が、周辺住民の屋根に積もり、ツララのようにこびりつくような事態になった時も、父は市を代表して防止策を企業に訴えるだけでなく、住民のために補償の斡旋も行っていたのです。
よく夜を徹して働くこともありましたが、使命感に燃えているからか、常に元気いっぱい。立場の弱い住民の側に立ち、企業と戦う父の姿を、今も尊敬し、誇りに思っています。
一方、母・政子は、1926年(大正15年)生まれ。父と同じ富津市の出身。小学校の教員をしていましたが、結婚を機に専業主婦に。どんな時でも、一人の人格として対等に話をしてくれる母でした。
私と妹が大きくなった時に、再び教職に戻り、病院内にある院内学級の担任になったことがありました。院内学級というのは、例えば重い病気で入院し、一般の学校に通うことが出来ない子どもたちに教えるクラスです。
他者への思いが深い母らしく、そこで教えることにやりがいを感じていたようです。家に帰ってきては、生きることに敏感な児童たちがうれしそうに学ぶ姿を語る母の表情を、今でも鮮明に覚えています。
教育の重要性、そして、どんな子どもにも無限の可能性が秘められていることを、母の姿から学んだような気がします。
「他者を思いやる心」、また「人のために尽くすこと」を、両親の背中から、幼心に学んだと思います。