父は関東大震災の前年、千葉県の富津市で生まれた。木更津中学校卒業後、海軍水路部に入り、太平洋戦争直前、マーシャル群島の気象観測に従事し、パラオで開戦を迎えた。海軍の委託生として気象技術官養成所(現在の気象大学校)に辛くも合格し、玉砕したアッツ島行きを免れたという。学徒出陣により海軍の飛行予備学生として土浦航空隊で訓練の後、九州の特攻基地へ向かう車中、名古屋で終戦となった。
戦後、気象庁に復帰したが、大リストラに会い退職。気象庁仲間の配慮で、茨城県那珂湊の気象観測所長を経て、昭和27年、全国初の日立市「天気相談所」初代所長に就任した。私が、那珂湊で生まれてひと月後のことだった。後に、母は「日立に来て転勤しなくて済んだ」と言ったものだ。
日立市「天気相談所」は日立鉱山の煙害の歴史に由来する。明治から大正にかけて銅の精錬による煙害に苦しむ農民とその防止に苦心する企業が真摯な協議のうえ、被害を補償し、大正4年、当時世界一の大煙突を建てて、煙害を防止したのである。煙害監視のために企業が設けた気象観測施設を市に寄贈し、市民への気象情報サービスが始まった。
この歴史を作家の新田次郎氏に紹介したのが父であった。気象庁を退職して間もない新田氏は父に資料の提供と関係者の紹介を依頼し、情熱を傾けて小説「ある町の高い煙突」を執筆された。公害問題に社会的関心が集まった昭和43年、「週刊言論」に連載され、翌年文藝春秋から単行本として発刊された。その年の読書感想文コンクール課題図書に選定されベストセラーとなった。
父は、気象情報サービスに加え、大気汚染・水質汚濁などの公害防止と環境保全に行政の側から尽力した。子供のころ、台風で徹夜した職場に弁当を持って行かされたが、あの神聖な雰囲気は忘れられない。市の環境保全の責任者に就いたころ、指先が黄色くなるほど吸っていたタバコを突然止めた。「大気汚染がどうのと言っても、タバコほどではない。範を示さにゃ仕事にならん」と言っていた。
定年間際に、大腸がんで7時間に及ぶ手術をしたが、その後25年間生き延びることができた。
囲碁好きで日本棋院の4段をとり、日立支部の創設に関わった。旅行先で写真を撮っては油絵を描き「白亜美術協会」の同人にもなった。
父の口癖を2つ思い出す。「職業は今の花形を選ぶな。20年後で勝負しろ」と。また「バランスが大事。反対側も長い目も」とも。万事、塞翁が馬の人生だった。